「幸せに生きる」ための土台は、「自己肯定感」にあるといっても過言ではありません。
自分を受けいれ、認めること無しで、幸せになることはできないからです。
ところが日本人は、自己を肯定的にとらえている人の割合が、諸外国に比べて低いという調査結果が表しているように、自己肯定感の低い国民だといえるかもしれません。
非常に残念な結果ではありますが、事実です。
自己肯定感が低い~つまり「自己否定」というアプリが無意識の中にインストールされている状態です。
そして、このアプリは意識にあがってこない深い部分に感覚として漠然と存在しています。
ですから、アプリをみつけてアンインストールするためには、まず、そのアプリをみつける必要があります。
ストレスクリアは、たった2つの質問でそのアプリをみつけることができます。
「自己否定」のアプリをみつけて解放することにより、結果的に自己肯定感が高まるセッションがストレスクリアなのです。
日本人は自己肯定感が低い?
2017年国立青少年教育振興機構による高校生を対象にした調査結果です。
自分はダメな人間だと思うことがある
(「とてもそう思う)「まぁそう思う」と回答した割合
- 日本 72.5%
- アメリカ 45.1%
- 中国 56.4%
- 韓国 35.2%
私は人並みの能力がある
(「とてもそう思う)「まぁそう思う」と回答した割合
- 日本 55.7%
- アメリカ 88.5%
- 中国 90.6%
- 韓国 67.8%
www.niye.go.jp/kenkyu_houkoku/contents/detail/i/98/
より参照
この調査結果から、日本人が自己肯定感の低い状態を当たり前にしていることが分かります。
なぜ、このように日本人は自己肯定感が低い人が多いのでしょうか?
アメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクトは著書「菊と刀」で、日本人の国民性を研究したものを記しています。
欧米では内面の良心を重視する「罪の文化」なのに対し、日本は世間体や外聞といった他人の視線を気にする「恥の文化」だと考察しています。
キリスト教文明の中では、行動の規範に宗教の戒律が存在し「神に見られている」という「罪の文化」がうまれ
神や仏の意識がそれほど強くない日本では、その矛先が世間の目に向かい、「人に見られている」という「恥の文化」がうまれたと、ベネディクトは述べています。
常に世間の目、他人の目を気にする「恥の感覚」に囚われながら自分の行動を決める。
そういう精神性の傾向が受け継がれてきたのが日本という国民性だともいえます。
また「謙譲の美徳」ともいわれるように、日本人は自信満々な態度をとる人よりも、「私なんか」と謙遜する人が好感を持たれる傾向があります。
自分自身のことや家族についても、いかに大したことがなく、どんなにダメであるかを語る事にも慣れています。
自信ありげに目立つ人は「出る杭は打たれる」で「傲慢だ」と叩かれます。
逆に謙遜して控えめにしている人は「いい人だ」と評価されたり、人から受けいれられやすかったりします。
自分を低くし、謙遜する事によって人から受けいれられるという文化的背景が日本人の無意識に脈々と受け継がれてきたのです。
集団の中で、安心・安全に生存するためには自分を低くすることが必要だ、と思い込んだ結果、自己肯定感の低い国民性ができ上がったのです。
自己肯定感が低い原因
自己肯定感が低いとどのような状態になるのでしょうか?
- 自信がない
- 必要以上に頑張る
- 失敗が怖い
- 人の目が気になる
- 言いたい事が言えない
- 我慢する
- どうせ私なんて
- 人と比べる
- すぐ怒る
- アドバイスしたがる
- プライドが高い
- やりたい事がわからない
などです。
そして自己肯定感の低さは「悩み」とセットとなっている場合が多いのです。
さらに「悩み」がなかなか解決できないと、さらに自己肯定感が低くなるというマイナスの循環を起こし、次世代へと受け継がれていくのです。
日本では子育てや学校教育において、子どもの「ダメなところを指摘して直させる」という指導が主流となっています。
自己否定や無力感をすり込んで、バツと恐怖で管理した方が、集団としての統制がしやすいという管理する側の事情もあるかもしれません。
しかしながら、そのように「ダメなところ」を指摘され続けた子どもの自己肯定感がどんどん下がっていくのは当然のことです。
また、何かが上手くできたり、「いい子」でいれば受け入れられるといった条件付きの愛の経験が多い場合には、その条件を満たせない自分自身を「ダメな自分」として自己否定していきます。
このような文化的背景・歴史的背景・家庭環境・生育環境・教育現場・地域・個人的に経験する出来事などの要因が、自己肯定感の低さをうみだします。
自己肯定感の低さの構造を知る
自己肯定感が低いのであれば、自己肯定をどんどん増やしていけば、自己肯定感が満たされ、自己肯定感が高くなる、と思いますか?
これはある意味、自分の感情にフタをしてポジティブを上塗りしている状態で、かえって苦しくなってきます。
ですから、自己肯定感の低さをこのような構造で捉えてみます。
自己肯定感が低いのは、自己否定しているから。
だから、自己否定をやめれば自己肯定感が高まる。
自己肯定感をどうにかしようとするのではなく、自己否定にフォーカスするのです。
無意識の中に定着してしまっている「自己否定」というネガティブな想いにアプローチしていくのがストレスクリアなのです。
アプリのインストール
赤ちゃんは、自他一体の状態でうまれてきます。
その後、言語の発達と共に「個」の材料となる情報が後天的に蓄積されて「個人的無意識」という領域ができます。
この個人的無意識の領域に蓄積されていくのが、ルール・価値観・思い込み・信念・解釈にたいする感情などで「個」を創り出す材料となっています。
分かりやすくいうと、自分の意志とは関係なく、どんどん「個の材料」アプリをインストールされていくようなものです。
そのアプリの中に「自己否定」というネガティブアプリが混在しているのです。
たとえば
- 私はダメな人間だ
- 私は可哀そうだ
- 私はまだまだ努力が足りない
- 私は愛されていない
- 私は器が小さい
- 私はたいした人間ではない
- 私には価値がない
- 私には闇がある
- 存在自体が恥ずかしい
などです。
これらのアプリは普段から発動しているわけではありません。
むしろ、自覚していなかったり、知りたくなくて隠していたり、意識にのぼらない深い部分で漠然とした感覚として潜んでいます。
それが、本人の意志とは関係なくアプリのパターンとして、現実の中に現れてくるのです。
「そんな私ってやっぱりダメな人間だ…」
なんて、思ったとしたら、それこそアプリの仕業です。
「だって本当にダメな人間なんです。あんなことも、こんなこともありました…」
と、本人にとってはそれが事実としか思えないくらい、強固なアプリもあります。
でも大丈夫です。
インストールされたものはアンインストールすればいいのです。
ストレスクリアでアプリのアンインストール
個人的無意識にインストールされたたくさんのアプリの中で、今のあなたにとって必要なくなったアプリは、どんどんアンインストールしていきましょう。
その為に必要なことは、どんなアプリがインストールされているのかをまず知ることです。
本人の意識にもあがってこないアプリをみつけだすことは、実はなかなか困難な作業です。
だって本人も自覚していないのですから。
ですが、それを教えてくれているのが目の前の現実です。
悩み・苦しみ・葛藤・繰り返されるパターンなどが、アプリの存在をアピールしています。
ですから、ストレスクリアは、その悩みを通して2つの質問を繰り返すことにより、そのアプリをご自身がみつけだします。
情報として第三者が与えるのではなく、自分自身が自分自身に教えてくれるので、「信じる」「信じない」という属性ではなく、自分にとっての「真実」を感覚としてつかみとります。
このアプリが自分の中にあったから、この現実を創り出していた。
全ては自らが選択していた。
ということが体感できるセッションで、体感するからこそ経験値として記憶に残り、もとに戻らないのです。
そしてその感覚を得られたとき、意識と現実の間で矛盾がなくなり、自己一致が進むと同時にアプリが解放され、アンインストールされるのです。
「自己否定」がなくなれば、そのぶん自己肯定感が高まります。
まとめ
日本人は自己肯定感が低い国民性なのは、今のところ仕方ないのかもしれません。
だから、日本国民よ! その文化を、その連鎖をなんとかしよう!
ということではなく、さまざまな人生の条件においてインストールされた「自己否定」のアプリをアンインストールすることによって、自己肯定感を高めていきませんか?ということです。
あなたも私も含めてですw
その為に出来ることは、望まない目の前の現実は、実は「自己否定」アプリによる自動操縦かも? とアプリの存在を疑ってみること。
そして、自力でアプリが見つからない時には、ストレスクリアセッションをアプリ探しの手段に使ってみることも併せておすすめしておきますw



